COLUMN 社長コラム 2022.08.01

言葉は、人生だ。

高校3年生になる春休み。当時の私には、夢と呼べるものがまだ、なかった。

元々JRAの騎手を目指して15歳で甑島を離れて、単身千葉に向かった私は、日本一のジョッキーになることしか考えていなかった。競争率は、およそ45倍という難関で、全国から15名だけの合格者だった。馬に乗ったこともなかった私が、奇跡的に最終審査に合格することができたのですが、業界では、馬にまたがる姿を見て、第二の武豊が来たと騒がれていたらしい。

競馬学校から自由に外出することは認められておらず、外界の多くの情報は、閉ざされていました。辞めたあとに私は、当時の校長先生や新聞記者からそのことを聞かされました。しかし、そんなことなど知る由もなく、学校側が規定する目方を超過するたびに、追加の罰則を受ける減量との戦いの日々。

当初の規定は43.0kg。

私は、43.1kgで体脂肪率は、5.2%だった。すでに丸坊主で、減らす脂肪もほとんどないといった状況まで絞り続けたけれども、それでもルールは、ルール。それが、厳しいプロスポーツの世界の現実だった。たったの100gが、10kgにも100kgにも思えるほど、毎朝4:00に起きて実施する検量の時間が苦しかった。次第に心身ともに憔悴し切って、最終的には、寝る時も口の中にティッシュを咥えて寝るようになってしまった。

口の中に残る唾液の1滴1滴が、自分を苦しめた。身も心もおかしくなりそうなほどに追い込まれ、私は夢半ばで諦めることに決めた。何度も引き止められた。苦しかった。苦しくて、悲しくて、乗り越えられない自分を毎朝、恨んだ。

その時に、自分に言い聞かせた言葉がある。「これは、後退ではなく前進」と。残り僅かな気力の中で、自分のどうなるかわからない先の人生を信じて、これ以上減量に向き合うことをやめた。もっと素晴らしい未来に出会える。そうでも信じなければ、辞めることさえできなかったのかもしれない。

あの日以上の悔しさを、まだ知らない。

結局、デビューすることもなく競馬学校を中退した無職の少年は、そのおよそ半年後、甑島に帰ることになった。島には、もう帰れないかもしれないと送り出されたあの日、フェリーから見た故郷の光景は、今でも覚えてる。それからしばらくは、誰にも会いたくなかったし、誰とも口を聞きたくなかった。

世界の全てがモノクロになってしまったかのようで、
目の前は、いつも真っ暗だった。

こうして、夢を持つことも、夢を聞かれることも怖かった少年時代。何気ない大人の言葉が、またぐさりと少年の心に刺さる。その度に、「本当にこれは前進だったのだろうか?」と、自問自答する孤独な日々。暗い部屋に閉じこもってただただ時が過ぎていく。そんな中、たくさんの心ある人たちに見守られたこと、心の支えになった言葉たちと出会えたこと。これは、今でも私の財産だ。

「どんなけんたも、好きだよ。」「けんちゃんは、まだまだいい目をしてるよ。」「大丈夫、生きていれば何度でもやり直せる。」「自分の人生だから、羨んでも誰かの人生は歩めないし、ケンタの人生もケンタにしか歩めないんだ。」「あなたは、人生を正直に生きようとするから悩むんですよ。それは、決して悪いことではありません。」「自分で辞めて帰ってきたんだから、次の一歩は、必ず自分の意思で決めろ。」「ケンタをもう一度、中学校に通わせてもらえんでしょうか?」「けんちゃん、漁船に乗らない?」本当に本当に、たくさんの言葉をかけてもらった・・・

言葉は、まさしく人生そのものだ。

言葉は、人生を切り拓き、言葉は、人を育てる。私が発した言葉も、私が受け止めた言葉も。この頃だろう。いつか、私を育ててくれたこの村に恩返しをしたい。そんな気持ちが少しずつ芽生えてきたのも、振り返ると、自分の人生の点と点が、一本の線になっていく。

私は、知った。過去の出来事は、変えられないけれども、
過去の意味を変えていくことはできるということを。

そうして、過ごした16歳からの少年時代。時間は過ぎていく。それでも、夢はまだ見当たらなかった。どこにもぶつけられない気持ちを抱いたままの少年がいた。

書いた人

山下 賢太

代表取締役

山下 賢太/ KENTA Yamashita

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