8.15 終戦、敗戦から80年の日に

8.15 終戦、敗戦から80年の日に
19歳で満州に配属された陸軍、第六十四大隊 独立輜重兵(どくりつしちょうへい)だった祖父は、ソ連軍の捕虜としてシベリアのスーチャン地区チグロバヤ収容所にいました。毎日のように戦友たちをあの世に見送りながら、自分も日本には戻れないことを何度も想像したと語ってくれた幼少期。いつも、クリスマスやお正月には、孫たちを集めて幾度となく戦時中の話をしてくれました。
祖父に、なぜ生き抜くことができたかと聞くと、思わぬ答えが返ってた。「戻ることのできない祖国のためではなく、ソ連軍の捕虜として、自分の命をシベリア開拓のために捧げる覚悟をしたからだ」と祖父は言いました。何くそと、運命を恨んで生きるのではなく、今、置かれた場所で懸命に生きていく人間は、どこであっても大事にされるということを身をもって教えてくれた。
戦況が悪化する中で、九九式(きゅうきゅうしき)破甲爆雷(はこうばくらい)という爆弾を抱えて戦車の下にもぐり込み自爆するという決死隊に志願しました。特攻は、十一番目。全身は震え、体の穴という穴からは汗が出て、甑島の家族の顔が浮かんだと聞きました。その時でした、「一〇番目から後方に下がれ」という上官からの司令が下り、我に返りました。祖父の運命は、「まだ、生きよ。」という撤退命令でした。
「ケンよい、世の中には、どがんた(どのような)状況でも生きい人間は、生きい。死ぬふたぁ(ひとは)、死ぬ。」と、
戦地でその生死を分けた祖父の言葉は、とてつもなく深く重たいもので、平和の中に生まれてきた私たちの想像のずっと先にあるものでした。もし、あの時、じいちゃんが特攻していたなら、今日ここにいる私たちの父、母はもちろん。孫も、ひ孫たちもここには存在していません。私たちの命は、あのときダモイの日を信じて生き抜いてくれた奇跡で繋がっているということに深く感謝します。
三年一ヶ月というシベリアでの強制労働は、一九四八年十月十日に終わりを迎えました。ロシアのナホトカ港から高砂丸に乗船した祖父。船は、日本海を渡り、京都・舞鶴港にて復員しました。終戦の日から、すでに三年以上が経った秋のこと。祖父の戦争は、ようやく終わりました。
私たちが、物心着いた頃。普段は、甑島の方言しか話さなかったじいちゃんが、流暢なロシア語を話すたびに、この戦争の物語が真実であったことを、教えてくれました。復員後は、戦後復興に向け、東海道新幹線の線路ふ設作業に従事したのみならず、甑島列島各地のインフラ整備。牛を飼い、田畑を耕し、現在の土木事業の礎を築いてきたと、亡き祖母からもよく聞かされて孫たちは、育ちました。
私は、その中でも祖父のつくる玉石垣が好きでした。学生時代、コシキアートプロジェクトの一環で、石垣積みの指揮をとった祖父が、私にこう言いました。
「ケンよい。石垣つくいは、あじろいか石ばっかい揃えて積むふともおいばって(美しい石ばかりを選んで積む人もいるけれど)。太っか石、こまんか石。どがんた石やっても積めば、あじろうしゅうないごと(美しくなるように)。いしかきも、人間と同じ。」
その言葉は、新たに甑島に会社を創業した、私の心に今でも生き続けています。じいちゃんに、米作りをはじめたいと伝えた時、「百姓は、よか。」そのじいちゃんの一言に背中を押されて15年以上が経ちました。まだまだ理想の会社や地域の姿には程遠いのですが、「どんな状況下でも、生きる人間は、生きる。」と、教えてくれた祖父の人生のように、あるものを生かすこと。身近な人々に生かされながら、運命を生き抜いていくこと。今日という日に感謝して、気概をもってこの命を生きていこうと思います。
享年100歳。100年という歳月の中で作り上げてきた、まるで一本の大きな映画のような物語。これまで時彦じいちゃんが遺してくれた、たくさんの言葉と、たくさんの思い出。そして、いつでも助け合ってきたこの家族の繋がり。私たち、孫やひ孫たちがしっかりとそのバトンを受け取って今日も生きています。
抑留や戦時中の話の続きは、またいつか
〜終戦の日に思い出す記憶〜
書いた人
