ひとが減りゆく社会ではなく、ひとりひとりが大切にされる社会だ。

先日、幼少期に出かけた海岸に行こうと山道を下って娘たちを連れていったけれど、昔あった道は草木が覆い被さり道というものがなくなっていた。人が減るということはそういうことなのだろう。行き来する理由がなくなると、そうなるのは自然のことだ。
年々、びっくりするほど過疎に拍車がかかっている甑島。
人口はますます減り、担い手も、作り手も、こどもも少なくなっています。それと同時に一人一人の地域活動への負荷も大きくなってきました。今日も朝早くから、集落への広報誌配り。毎月複数回。これは、30代の働き世代、子育て世代の仕事なのかな?とボヤきながら、まぁそれなりに楽しくやってますが、大変です。
私が島にもどってきた2010年は、およそ5,500人いた人口が、いまでは3,500人。この15年で約2,000人の喪失です。少なくとも、ここから生まれてくるこどもたちのためにも、そういう時代だからと、ひとことで終わらせてはならないと思うのです。決して単純に人口増やして、産めよ増やせよ。だけで解決するようなものではなく、ひとは、増えても不平不満や不幸だと感じるひとが増えるでは、ならない。しかし、現実は、若者より、甑島の高齢者(特に独居)の方が不幸だと感じるひとの割合が高くなっていることが、社協の調査データをみれば、わかります。
この島で永く暮らし続けることの先に、不幸に繋がっている。そんな寂しい現実を抱えているひとがリアルに存在しています。そんな状態の中で、まだ始まったばかりの人口減少時代。ここから100年以上続くのです。だからこそ、いまの暮らしを支える政策と、人口が減った先の世に向けて、大胆な政策も必要と思います。
人口減少時代というのは、ひとが減りゆく社会ではなく、
ひとりひとりが大切にされる。そんな社会であって欲しい。
でも、もはやそれを願うばかりでは居られない。というか、なにひとつ叶わない。国も地方自治も、仕組みの限界が近づいてると思えるから、綺麗事だと言われたとて、越境しながら足元を大切にする人たちを繋ぎ合わせていく。
さらには、実行するひとや作り出すひとへの尊敬を忘れてはならないと思うのです。江戸、明治、大正、昭和とそれぞれの色んな「いくさ」を乗り越えてきた。この80年、高度経済成長期を支えた平成という企業戦士たちの時代の転換点がやってきている。次なる時代は、いつもちょっぴりタブーの先にあるから、この社会をよく見ておくといい。この時代に課題と言われているものや脅威となるものが、次の時代の指針。だからこそ、この混沌とした社会から躍り出て、何かを新たに作り出そうとする人たちを押さえつけることが社会的な教育であってもならない。
残念だけど、今のままでは、甑島は、このままぬるっと衰退していくだろう。だけれど、死んだあの世で、将来の孫や曾孫たちからあの時代を生きたひとたちは、なにも戦ってくれなかった。と言われたくはない。だからなのか?人口は減っているのに、事業の借り入れだけは増えていく(笑)
現代は、本当に滑稽だと思う。今の世の中で不幸だと感じているひとの多くは、人間がつくりだした仕組みや人間関係に人間が苦しんでいるからだ。そんな動物が、自然界にいるだろうか。もういちど、わたしたちは、ひとに戻り「自然」として生きて、会社や地域や自治を、その自然に倣い、仕組みと選択肢を作り直す必要がある。
それは、
自然と人間という対になるものでなく、
人間が、自然であるようにーー
それをもう一度思い出しながら、生きていく。無責任にこの状況を誰かに押し付けるだけもしたくないから、いまこの状況で、行動なきアイディアも批評家も要らない。私は、目の前のことと、海の向こう側のことと、今日のことと未来のことを行き来しながら、いまを生きていく。
いつかの曾孫「ケンタ爺さん、残してくれたのは借金だけだったな」
そう言われないよう、実業も頑張ります。笑
書いた人
