Islands have a dream.
2019年12月に中国武漢で始まったコロナ騒動。
みるみるうちに、世界的な騒動に発展していった。
私は、緊急事態宣言の1ヶ月前、九州農政局関連の業務依頼を受けて、現地の第一次産業をベースに観光の体験コンテンツ作りやコンセプト策定に関するサポート業務のため、甑島を離れて沖永良部島にいました。
世界的な感染の広がりを見せるなかで、この先どうなるのだろうかという不安を煽るように、相次ぐキャンセルのメールと電話の毎日。そんな日々の中での沖永良部島入りでしたが、とうとう春先のご予約の問い合わせは、この時1件もなくなりました。
2020年3月5日、
こんな言葉をSNSに投稿
「春先のご予約は、昨年比の95%も減ってしまいました。悔しいけれど、私たちは会社の弱点を認めなければなりません。一方で、世の中を見れば、こんな状況下でもきっちり稼いでいる会社があるのだから、僕たちは素直にそこから学ぶほかにありません。」「そして、忘れてならないのは、今日もこの会社を支えてくれる仲間や家族、多くのお客様がいること。それに感謝しながら、明日も続いていくことを最優先に考えること。」だ。
「嘆いていても、何も変わらない。強いものが残るのではなく、変化するものだけが残る世界。弱き僕らは、結局のところ、行動するしかない。この騒動が収束したとき、island companyは、ものすごい価値とわくわくをこの小さな世界に生んでいきます。」
ただ、ひとことだけ言わせてください・・・
コロナのばかっ!
そうして、そこから紆余曲折の3年が過ぎた。
現在は、2023年4月5日。
少しずつだけれどコロナ騒動は、世界から遅れをとりながらも収束に向かっている。だからこそ、ここで一度あの日からの自分の人生の一コマと、アイランドカンパニーという会社の生き様を立ち返っておきたいと思う。会社をゼロからつくった人間の、生き残った先にあるはずの未来のために足掻いた3年間を忘れないために。そして、いつかやってくるだろう新たな経営陣と、まだ見ぬ将来のスタッフたちのために。
僕たちは、まだ生きている。
あの日、僕は真っ先に金融機関に相談した。
この騒動はきっとしばらく続くだろう。たとえ2年間売り上げがゼロになったとしても、人件費や固定費と呼ばれるいくつかの支払いは待ってくれないから、会社としてもコロナを言い訳に立ち止まるわけにはいかなかった。
そんな中ではあったけれども、誰ひとり会社側の都合で解雇しないと決めたら、やるべきことははっきりした。全社員の給与を支払い続けることができるように2年分の運転資金の追加融資を申請した。
何度も数字を見返したけれど、あのときすでに借入額は、アイランドカンパニーの売上高では、ぎりぎりいっぱいの上限だったと思う。そこからさらに、まとめ融資とニューマネーを含めて2千万円以上の借り入れを実行した。すでに毎年500万円以上、ひと月で換算するとおよそ42万円の返済を続けてきたけれど、返済するための手段の一つでもある豆腐は、1丁190円だ。
据置期間後の毎月の返済額を想像すると、その不安は増していく。創業まもない小さな会社は、コロナ前からすでに多額の借入で投資を続けてきており、更なる返済の増額はとてつもなく大きく感じた。もしも、2年経って日本経済の回復の目処が経たない時は、借入の保証人になっている私と妻は、借金を抱えて会社は倒産、ふたりで返済する日々が待っている。その最悪の事態も、もちろん頭によぎった。
しばらくして、全社員を集めて
緊急のミーティングを開催した。
苦しかったけれど、、、新たな借り入れをおこさずに、今の状況が半年以上続いたら会社が無くなる可能性があることを正直に伝えた。その上で、ここから2年間、誰ひとり会社側の都合で解雇しないためにも、事業の縮小ではなくチームでの挑戦を続けたいと伝えた。
内心は不安に押しつぶされそうだった。
それでも、先立つものがない自分には、手探りでも前に進む以外の選択肢はなかった。そんなとき、取引先でもあった新原製茶のグループ会社[鹿児島市]の株式会社すすむ商店の新原光太郎社長からたった一言だけのメッセージが届いた。
「茶葉とティーバックどちらがいい?」
という、普段ならなんでもないようなメッセージだった。いくつかのやりとりをしたあと、しばらくは発注しなくても良いほど沢山の茶葉を、甑島に届けてくれたのです。その頃、すでに翌月4月から6月までの3ヶ月間の予約のほぼすべてがキャンセルとなっていました。
たとえしばらくの間ゲストがいなくなっても、それでも「お前、諦めるなよ。」光太郎さんから私へのメッセージだと思った。そして、いつ終わるのかわからない日々を迎えるにあたって、翌日の3月8日に近況を伝える記事には、1,137人以上のリアクションと50件以上のコメント、そして418件という過去に経験したことのないようなシェアの数々。取引先だけでなく、全国の友人知人からの応援メッセージをもらって、後にはひけなくなったし、簡単には諦められない日々が始まる。それを覚悟した。
目先の対策も大事だが、先を見据えてやれることをやろうと自分の中の覚悟が決まった。そして、早々に4月3日から5月17日までのゴールデンウィーク期間を含めた45日間、FUJIYA HOSTELは休業を決めた。
本来であれば、会社としても大切な時期だったので、島外からの観光客の受け入れ自粛は本当に苦しかったし、島内の事業者からもその発信が身勝手じゃないかと批判された。しかし、その4日後には、日本政府も第一回目の「緊急事態宣言」を発出して状況は、より深刻化していく。
数字を見れば明らかで、危機的状況だった。
ただ、やるべきことは明確だったようにも思う。この時、自社だけでなく自社の仕入れ先も同じように影響を受けていた。宿を休業するということは、そこに拍車をかけるということ。けれども、すぐには来島は呼びかけられない。だから、ものなら届けられると思い直し、期間限定の応援通販で私たちと私たちの取引先を支援してもらえないか?とこの日のうちに特設ページを大急ぎで立ち上げた。
本来ならFUJIYA HOSTELに宿泊して甑島で味わってもらいたかった、地元のさつま揚げや干物、水産加工品なども商品にした。そして、いつか来島してもらえるように、宿泊ギフト券のバウチャーチケットの販売も始めた。
※もし、この時に宿泊ギフト券を購入されて、まだご来島されていない方がいましたら、ご予約ください。有効期限は、宿がある限りと延長しています。
※現在は、別サイトに移行しています。
このサイトの立ち上げから、金額で言うとおよそ2週間で140万円以上のご注文をいただいた。一つ一つの注文が、頑張れ頑張れという言葉になって、あの時のアイランドカンパニーを支えてくれました。また、島内からも直接手渡しで現金を持ってきてくださった方もいらっしゃいました。それは、もう自分だけの会社じゃないことを改めて感じた瞬間でもありました。
通販を立ち上げた先に取り組んだことは、ゴールデンウィークに全てキャンセルになったゲストの影響を大きく受けていたコシキテラスの立て直し。これまで店内でお召し上がりいただいていたランチメニューの全ての提供を取りやめテイクアウト企画に取り組みました。テイクアウトと言っても現在のメニューを容器に入れて提供しますということではなく、テイクアウトを「祭り化」してしまおうというものでした。
店内で過ごすことは難しくても、せめて自宅に持ち帰って楽しんでいただけるようなメニューを提供できないだろうか?とスタッフを中心に、レシピ開発と業務の見直しを1週間ほどで実現した。それも思い返すと、怒涛の日々だった、、、
つくづく思う。何かあった時のリカバリーする力、助け合う力。自分ごとで向き合っていく心のあり方、我慢強く継続し、行動する力。アイランドカンパニーのスタッフのそうした底力というチーム力の高さからなるものは、簡単には真似できないものだと毎度のことながら感心する。
私はというと、いつものことながら商品名とコンセプト、店舗ネーミングと価格設定を真剣にふざける、、、三密バーガー、コロナにカツバーガー、ダブルチーズならぬダブルマスクバーガー(手作りのジューシーパテに2枚のマスクチーズをのせました)値段は、¥567だ。今見てもギリギリライン?を攻めてて苦笑いする。さすがにふざけすぎたかも?と思ったのだけれど、島の人たちが「ありがとうー!」って喜んでもらえている様子を見てホッとした。
お店の名前は、モスバーガーならぬ、やいモスバーガー(=島の里言葉で「そうです」を意味する。)そんな、バーガーを5日間限定でオープンしたのですが、実は、ここからすでにアフターコロナを見据えたメニュー開発が始まっていました。この時のバーガーをベースにのちの全体メニューを作り替えるという企みでした。
それは、island companyの根底にある「1way 2job」という行動指針に基づくものです。それは、一つの道には、2つあるいは、2つ以上の仕事があるという考え方。それを常に想像し、実行していくことが大切です。
グラフの通り、コシキテラスの低迷は、パンデミック以前から始まっていました。コロナ云々は関係なく、売上が年々低迷していたコシキテラスでした。2016年以降観光客が増加すると同時に、国や市の政策もあり島内に次々と飲食店等の新規オープンも相次ぎました。毎年のように飲食店が増え、自社の存在価値をしっかりと確立できずにいました。またメニュー数が多くなると、仕入れ先も多くなり気が付けばコスト高にも陥っていました。
だから、どこかのタイミングでテコ入れすると決めていた2019年。その矢先に新型コロナウィルスの発生でした。その折をここぞのタイミングで2020年、やいもすバーガーの企画とメニューの見直し(観光客と地元向け商材の比率変更)、仕入れ先の見直し、単価の見直し、ベーカリー機能の移転でのオペレーション改善と惣菜づくり等。改善を重ねたスタッフたちの結果が、2年半経過して明らかになった。
そんな慌ただしかった2020年5月2日、先のことはわからないなりにも1本の記事をnoteで書きました。全文を知りたい方は、下記URLのリンク先をご覧ください。
タイトルは、『乗り越えてはならない』
https://note.com/kenta_yamashita/n/nf1b58dab4e1b
世界は、もうここにあった
世界は、ここではないどこかではなく、今ここにある。そのことを、閉ざされた世界が教えてくれました。それなら、私自身はここでいかに生きていくのか。会社は、今後の世界に社会にどうあるべきか。自問自答し続ける時間がすぎていく中で、ふと
井の中の蛙大海を知らず。
どこかで聞いた、その言葉が頭をよぎった。
=「小さな井戸の中にいる蛙は、大きな海などの井戸の外にある世界のことを知らない」と言う意味から、自分の狭い知識にとらわれてしまい、物事の大局的な判断ができないこと。
外へ出たくとも出ることができない状況の中で、島にいるとなんだか狭い井戸に閉じ込められたカエルのような気がした。けれども、見方を変えるとそこは、小さな世界=甑島という井戸の中で暮らしているのだと考えるようになった。社会が変化していくなかで、
ここではないどこか、ではない
ここにある環境の中でいかにより良く暮らしていくのか。そこれまでの働き方や、自分自身の暮らし方も変化していこう、という心境の変化の中で 『世界で一番暮らしたい集落』=自らで井戸をつくる時代 という言葉が、私の頭の上にぽつりと浮かんできた。では、その井戸を作るのは誰なのか。
いつか誰かが変えてくれる、いつか誰かが与えてくれる
その時代が終わる。自らが機会を創り、自分自身を環境に合わせて
風のように変化させて変容していく。
半径400メートルの世界をどのように創造するか
それから2020年5月25日、
緊急事態宣言から2ヶ月足らずのことだった。これまで5年間コシキテラスで焼いていたベーカリー部門を、本店のある村東集落に「OSONO BAKERY」というパン屋としてリニューアルすることに決めた。さらには、地域モビリティの導入や新たなスタイルの宿泊施設の運営、島旅珈琲というローカルコーヒーブランドを甑島から育てていくこと、近い将来地域の不動産会社を立ち上げることなど、多岐にわたり規模の縮小ではなく挑戦することを決めた。この先は、もしかすると、味噌も醤油も食用油もワインもビールも、学校・教育も福祉も介護もエネルギーも、集落の暮らしの原点に立ち返ってマイクロコミュニティのなかで循環していくようなものを自らで創り出していくのかもしれない。
通称=island company
Companyの語源は、カンパーニャと呼ばれる大きなパンから来ており、その”パンを一緒に分け合う仲間”のことだ。私たちは、Islandを海に囲まれた「島」という地理的な意味を指すだけでなく「島」というひとつの世界に集う新たな集落(=コミュニティ) であるとも捉えている。
では、答えのない時代にパンを分け合う事のできる仲間とは、どういった仲間だろうか。世界中どこで暮らしてもよい、どんな仕事をしてもよい、どんな生き方や考え方があってもよい時代に、私たちはどんな「島」を目指してその海を渡るだろう。
本質的な地方分権が進み、自立分散型の社会がやってきたときには「都市」と「地方」という二項対立するような言葉や概念ではなくなり「東京」も「甑島」と同じひとつの地域という自立した世界になっていく。そんなことを考えながら、一軒の古民家と向き合いながらクラウドファンディング CAMPFIREにてプロジェクトの呼びかけと資金調達に取り組んだ。
2020年6月29日、
そうして「世界一暮らしたくなる村に古民家再生の製パン所をはじめます!」を呼びかけることになり、無事に目標金額を達成することができた。CAMPFIRE https://camp-fire.jp/projects/view/298117
それから幾度と予定変更を繰り返しながら、現場の棟梁、穂満くんと現場調整の連続(穂満くんはFUJIYA HOSTELの施工にも来てくれた大工さん)。およそ1年がかりで古民家の改修に取り組みながら、2021年の春にオープンすることができた。でも、世界はまだパンデミックの中。新装開店の正式な案内を出すこともできず、プレオープンと言い訳をしながら情報の出し方ひとつにも苦心した。
話は、また2020年に戻る。
島の中で世界をどうつくるかということと同時に、島内外のたくさんの人たちに支えられて、島の内側はもちろんだけれど、島の外とのつながりもいかに大切かを思い知らされた時間だったように思う。高校のない島に生まれ、「自立」ということと若い時からよく向き合ってきたけれど、本質的な自立とは、1人でなんでもできることではなく、たくさんの頼れる先があることなんだと、この時間を通じて学び直した。
アイランドカンパニーの業績は、
一時的に昨年比50%まで半減した。
FUJIYA HOSTELの予約のほとんどがキャンセルになっている一方で、会社全体が50%でとどまったのは理由がある。元々農業から始まった会社ではあるが、農作物というものは一朝一夕では育たない。だから半年、10ヶ月とその収益化には、時間が必要でした。無人販売をしていた月給800円の時代、やりがいはある一方で経営感覚などなく、お金には苦労していた。
だから、その後に始める山下商店という集落唯一の豆腐店では、農業自体は続けながらもキャッシュフローの流れの違う事業と顧客が異なる事業を組み合わせることを、当初から決めていました。豆腐屋なのに、コーヒーが飲めたり、お土産物が買えたり、お酒が飲めるバー営業したりするのも、それが理由だった。
観光客のためだけの事業は、閑散期に苦しむことになる。地元だけだと、人口減少が進む中で長期的には苦しむことになる。それを知っていたから、「あれもこれもするな」といろんな声をもらったけれど、その落とし所を見つけながら結局は、あれもこれもするという道を選んだ。
おかげで、当時は睡眠不足で一日3時間眠れたらよく寝た方だった。次第に農作業をする時間もまともに取れなくなっていったし、やっぱり、餅は餅屋だとも、よく叱られた。
※地域密着のビジネスである山下商店甑島本店の売上(店舗+配達業務)は、2017年以降着実に伸び続けていることがわかる。配達業務は、コロナ禍に大きく伸ばし、限界集落にとって私たちが、地域のインフラであることを改めて自覚した2年半でもあった。
農業生産については、レモングラスだけ小さく継続しているものの、米づくりや野菜づくりは、現在休んでしまっている。けれども、あの時のあれもこれもやると決めた思考が、結局は、回り回って、7年後の我が身を助けた。
2020年7月7日、
そうした状況と判断の中で、島の内側はもちろんだけれど、島の外との世界へもより働きかけていく。
閉ざされた地域を言い訳にして、志ある仲間たちがまちの未来を諦めてしまわないように「踊りたくなる九州をつくる。」をミッションとして九州地域間連携推進機構株式会社を設立。私も設立メンバーとして出資し、さらには取締役にも就任することになり現在も、幽霊部員のごとく見守っている。
おかげさまで、移住ドラフト会議をはじめ、九州発の航空会社ソラシドエアなどの企業や自治体との連携が進み、九州各地が躍っている。ちなみに、設立当時の役員には、現在の鹿児島県日置市の永山市長も名を連ねていますが、現在は、共同代表を退任して市長に専念中。 https://note.com/npb_kyushu/n/n34bf52eab295
それからしばらくして、2021年3月3日。
世界自然遺産の島、屋久島の食文化を持続可能にしていくSANROKU Inc.を、屋久島の仲間たちと合弁会社を創業した。アイランドカンパニーも関連会社として出資を行い、株式取得。私も、取締役に就任した。
現在、三岳の麓で島大蒜や島唐辛子の栽培を行い、屋久島近海産の飛び魚などを使用した商品やジェラートの開発等も着々と進んでおり、グループ企業としてそのシナジーを生んでいる。これからがますます楽しみなところです。
そしてもう一つ、2021年9月1日。
地域に根ざした新しい仕組みづくりのため、地域ビジネスにプロデュースという手法を取り入れ、全国各地の地域事業に関わっている株式会社インターローカルパートナーズ(本社:東京都港区)に対して、世界最大級の英語学習プラットフォームに育てたDMM英会話の元CEO 上澤貴生さんらとともに追加出資を行った。島嶼地域のプロデュース事業をあらゆる知見から実行していこうと思っています。
甑島に、新しい滞在拠点を
そして、2020年8月、
地鎮祭を終えて「甑島に、暮らす。」をコンセプトとした中長期滞在向けのホテル、niclass/ニクラス甑島の建築工事がゆっくりと進んでいる。毎日のように全国の感染者数がニュースで報道され続けているなかで、予定していた上棟式も内覧会も行うことはできませんでした。
こちらの新しい滞在拠点niclass甑島(https://niclass-koshiki.com)は、株式会社kijiya(鹿児島市)が出資責任を持ち、アイランドカンパニーが現地の施設管理・保守業務を含めた運営責任者として業務提携を行う現地パートナーとして運営しています。また、建物の設計にあたっては、周辺の建築景観に配慮していただき、上甑島の建築様式をモデルとした分棟式の寄棟造り。高さを抑えながら玉石垣が見える客室としていただきました。
ここまで、緊急事態宣言からまだ4ヶ月しか経っていないというスピード感。コロナ禍で、リモートワークとかワーケーションという言葉が一般化しつつありますが、それ以前に動き出していたものと時代が合致するタイミングを経験させてもらいました。今では、3泊5泊というようなスケジュールでゲストが来島するようになっています。
世界に「やまない雨はない」ように、必ず転機がやってくると信じながら毎日フル回転で、表に出るときは笑って、また篭りながら休まず動き続けていたのもこの頃でした。きっと何かしてないと、動いていないと気が気じゃなかったんだとも思います。
心のうちは、9割は不安だった。
2020年8月29日、
甑大橋の開通
およそ30年前、甑島架橋建設促進期成会が設立され、島のあちこちに「こしきはひとつ」という看板が建てられていたことを今でも覚えています。毎年、年度末になるとあと3年、あと3年、うんにゃーあと4年はかかいと、毎年のように聞いていた「あと3年詐欺」みたいな橋が、このコロナ禍に開通した。
毎晩のように灯りが消えなかった土木事務所。朝早くから乗り合わせて現場に向かう職人さんたちと、よくすれ違った。ランチにきてくれた橋に関わる担当職員や現場の監督さんたち。なんだかもう、昨日のことのようで、なかなか掛からなかった日々が、懐かしい。
でも、私は、正直この橋がかかることに前向きじゃなかった。
ただそれは勘違いしないでほしい。橋の建設に反対なのではなく、橋がかかった先の甑島全体の振興計画や具体的な行動ビジョンが指し示されないことへの不満でした。単に島が橋で一つになることを僕らは待ち侘びているのではない。本当の意味で、こしきが一つになるには、ビジョンと戦略が必要だ。
私たち島民が「誰か」ではなく、一人一人がどうありたいか。ここで、どんな最期を迎えたいかを考え、対話する機会も場ももっと必要だったと思う。そうした場のデザインがされてないことへの寂しさは、今でも残っている。年配者の声はもちろん大切ですが、若者たちや女性や、子育て世代。この橋が建設された後に生まれてくる子どもたちのために、もっとできたことはあるだろう。
ただ、時間がなかったことも理解しているつもりだし、自分自身もやりきれなかったことも多いにある。けれども、地域において私は、なんの肩書きもない1人の商店主(事業主)。何を代表するわけでもなく、ただ、ここに暮らしている島民のひとりだからチカラなどあるはずもなく歯痒かった。
この先の未来に、この橋がかかったから、あるいは市町村合併を選んだから、甑島の過疎が進んだ、高齢化が進んだ、無人島になった、子供がいなくなった、限界集落が増えた、公共サービスが低下した。ではない未来が訪れてほしいと願うけれども、今のところその道に進んでいる。だから、願うばかりではなく、商店主であり、島民の1人として、行動することで、橋がかかってよかった。甑島が一つになってよかった。ここに生まれて。ここで最期を迎えられてよかったと、意味深い人生にしていく。
そうありたいと思った。
2020年8月29日、
手放しで喜んでもいられない地域課題も多いけれども、鹿児島県で最も長い1,533メートルの「甑大橋」が開通し、新しい島の歴史が始まった。この2020年に生まれた赤ちゃんが、40歳になる2060年。私は生きていれば、75歳のおじいちゃんになっている。
今は特別なこの橋も、次世代のこどもたちにとっては「当たり前の風景」になっていることでしょう。その頃の列島全体の人口は、1,400人程度と予測されています。その時のために、単にGDPでも人口でも観光客数でもなく、「わざわざここに暮らす理由」を育てなければ、集落の存続どころか無人島に近づく可能性が十分にあります。
今は存在しているいくつかの集落も、
近い将来またひとつ消えていく。
これからも頑張り続けないと、成り立たないものは、いつかは終わってしまう。だからこそ、頑張らなくていい未来のために、頑張らなくてはいけない世代なんだなぁと思いながら、今日を生きていく。
先の時代を静かに見つめながら、私たちは、今日を生きる。これまで甑島にあった4つの村(旧里村・旧上甑村・旧鹿島村・旧下甑村)が物理的に一つにつながったけれども、本当の意味でのこしきは、ひとつ。はこれからだ。ひとつになろうとすればするほど、私たちは、ひとつになれないものです。だから、やっぱり
こしきは、ひとつひとつ。
南北に長い列島。生活圏ではない集落が集まっていること、その価値観や地域性、芸能、文化、歌踊り、言葉、その違いを認め合って尊敬と尊重することから、島のこころはひとつになっていけると信じてる。そのための政策を、他人任せにせずにやっていく。
あれもこれもひとつにするだけが、島の未来ではありません。
新型コロナというパンデミックの最中で、新たな「甑島」の未来図も描き、行動していくタイミングが同時にやってきた。どんな島の未来を描き、行動するのか。それは他の誰でもなく、きっと、今ここを選んでこの島に生かされている私たち自身。子どもたちにどんな島を遺していくか。はっきり言って、
今の30代-50代のつなぎ役の私たちにかかってると思ってる。
そして、その人たちを支える人たちのフォロワーシップにもかかっている。
現在、出張のほとんどが、オンラインに切り替わり、家族と過ごせる時間も増えた。そして、これまでに立ち上げた会社や、事業所など将来、誰が引き継いでいくのか、そんなことも考える時間も次第に増えた。男だから、長男だから、後継者だから、故郷だから。そういう理由では、現に故郷に子どもたちは戻っていないし、戻らなくてもいい時代にもなった。先のことを考えると、悩みは尽きない。
だからこそ、笑顔で戻りたくなる島を
アイランドカンパニーはつくりたいと改めて思う日々。
2021年4月、
新型コロナウィルスの緊急事態宣言から1年が過ぎた。まだ世界はパンデミックの中にあり、文字通り怒涛の一年間だったけれど、なんとか生き繋いでいる。そんな中でしたが、正社員3名とパートスタッフ1名 計4名の新しい仲間が入社してきてくれた。経済が回復していない中での新規雇用は、経営には大きな負荷がかかる。けれども、仲間がいるからやれることもあるのだと信じて、完成したばかりのオソノベーカリーで初めての入社式を開催した。
入社式 代表挨拶文(全文はコチラ→ https://note.com/kenta_yamashita/n/n0503bc0788ab
いつの日か必ず、日本の島々を代表するリーディングカンパニーとして、私たちの存在が、甑島列島をはじめ、島嶼地域の希望になっていくと思う。
その後、2021年4月21日、
緊急事態宣言から1年が経った頃。栃木県日光市のビジネスパートナーであるNIKKO BREWING.を訪問した。OEMを依頼して試作していたクラフトビールが完成間近ということだった。甑島産のキダチアロエを発酵させて製造した「ヒラミネの木立甘酢」の発売に向けて監修をサポートしたことを機に、もっと地元の生産者と深い関わりを持つことで山下商店甑島本店という事業を「地域商社」として位置付けて機能させていこうと改めて原点に立ち返ることができた。
監修したアロエビールは、パッケージデザインを施さないプロトタイプのままで発売を開始した。この物語は、まだ始まったばかりだから、これでいい。今のところ。
いつか甑島のどこかで、海が見える小さな醸造所をつくることができる日をアイランドカンパニーは、夢見ています。醸造所に併設した、カウンターだけのビアスタンド。夜になると、集落を照らす小さな街灯の下に、島の男や女たちが老若男女(二十歳以上ね)今夜も集まってくだらない話を酒の肴にして笑っている。
どこどこの船が大漁だったとか、近所のあの人がどうだとか、他愛もない物語のつづきは、またいつか。
この期間、アロエビール以外にも下甑島の青瀬橙、こしき海洋深層水塩を使用した柑橘系フルーツシロップ「KINOS」「Kitrus」の開発、上甑島のきびなごを使用したバーニャカウダソース「漁師印のキビーニャカウダ」←かごしま新特産品コンクールで鹿児島県観光連盟会長賞を受賞、甑島産のさつまいもを島内で買い取り焼き芋に。島旅珈琲のコシキブレンドを監修。上甑島産のウコンと玉ねぎを使用したオソノベーカリーの特製カレー、真夏のスパイシーハイボールや青瀬レモンの丸ごとレモネード、島旅ジェラートの監修や橙果汁のゼリーミルクラテ等。
この2年で多くの商品開発にも目まぐるしく取り組んできた。
緊急事態宣言中に改修がスタートした中長期滞在型の宿泊拠点 niclass甑島 が、ようやく1年がかりでオープンした。オープンしたといえども、まだコロナ禍は続いていたし、お祝いすることも出来ず、内覧会も出来ず、ひっそりとその開業を迎えた。しばらくは、売上ゼロが続いて、
閑古鳥が鳴いていた。
どうやら、この騒動はまだ続くみたいだ。
それは、
一枚の手紙から始まった
フジヤホステル、山下商店、コシキテラス、島に帰り、あなたの取り組みをあちこちで拝見した。あの日の夜にお会いしたのが、社長様とは知らず大変失礼しました。その後、いろいろ調べ、島の親戚からどんな人物かも聞いた。私の願うような故郷の活性化にいかしてくれるのは、甑島に貴方ひとりとお見受けする。甑島再興の為に、我が故郷の土地や建物をできれば君に譲渡したい。
2021年6月上旬、
一枚の手紙をいただいた。その日の夜のことを覚えている。たまたまFUJIYA HOSTELに用事があり、今にも寝てしまいそうなムスメを抱えながら、Tシャツとジーンズに髭づら姿。(いつもの格好だけれど・笑)世間で言うところの社長の様子には、とても見えない姿で向かった。
宿では、数名のゲストが夕食を楽しまれていたので、軽く会釈をして一言か二言だけかわして家路についた。
ゲストは、下甑島の出身で、橋がかかったことを機に帰省の際に上甑島にも宿泊されたようだった。また、昼間にランチで立ち寄った中甑港の飲食店や、豆腐屋さん。そして、古民家を改修したフジヤのことを褒めて下さっていた。そして、何よりそこで会話する若いスタッフたちが、皆親切で笑顔がよくて明るくて、心地がいいと、大変喜んでいる様子。
その時の私は、何も言わずただ頷くように聞いていただけでした。
後日、自宅のある大阪に戻ってインターネットで改めて「甑島」を検索してみると、そこにあったのは、コシキテラス、山下商店甑島本店、FUJIYA HOSTEL。島で過ごしていたお店の全てを、同じ会社が運営していることにはたと気がついたそう。
スタッフ紹介ページを開いてみると、あの日の夜に一言だけ会話を交わしたジーンズ姿の若者が「代表取締役」と書いてあることに驚き、そこからすぐにまた会いたいと、筆をとったとのこと。甑大橋が開通し、そんな出会いから始まった下甑島で、初めてのプロジェクトが動き出すことになった。
橋がかかって、よかったね。
心からそう言える日のために、次世代の子どもたちのために自分達でプロジェクトをおこし、その日を迎えにいこうと思った。
これまでいくつものご縁に導かれて、その土地や場と対峙するときに思ってきたことがある。「お金があれば、リノベーションができる。」「お金があれば、形になる。」これは、間違いだということ。お金だけがあっても、再生しようという人間とそこに対峙する気持ちがなければ、当たり前だけれど、それが叶うことはないと言うこと。
もちろん先立つものが、あるに越したことはないけれど「お金」さえも手段のひとつに過ぎない。
そもそも空き家になるには、理由がある。土地のエネルギー、集落のエネルギー、うごめく人間の感情、家族の関係性、色んなものが複雑に絡み合っている。だからやっぱり、初めの一歩を踏み出すために、他人の私が不安を取り除く勇気は、お金ではありませんでした。そして、どんなにお金があっても、どんなに想いがあっても、やはり行動することでしか変わらないのもまた事実でした。
最初の一歩が、いかに困難か、、、
いつか、ここに縁あって生まれたひとびと、そして子や孫やひ孫たちが、自分のルーツは、甑島なんだと。いま暮らしている人々はもちろん、様々な理由で、ここを離れたひとたちにとっても、島を誇りに思い続けることができる故郷であるために、体力があるかぎりこうした場と対峙していけたらいいなとは思っている。
こうして、一枚の手紙をきっかけにして上甑島と下甑島の両島に、いくつかの不動産の使用貸借契約や譲渡を引き受けることになった2021年。とは言ってもすでに廃墟と化しているものもあり、長年放置されてジャングル化してしまった屋敷もある。実際に現地に観にいくと、通りからはそこに家があることも見えないほどの敷地だった。2年がかりで、ようやく空き家に光が差しているところまできた。
今、こうしている間も、現在も島内では空き家が増えています。
けれども、借りることのできる家がない問題も続出しています。また、公営住宅はあるものの、その数は限られており公営住宅法の収入制限の壁に阻まれて入居できないケース等も相次いでおり、苦心している。アイランドカンパニーも、毎年スタッフが増加するたびに家問題に苦労してきた。
出身者であっても家探しに苦労している状況で、さらにはこの時勢の影響もあってか、都市部を離れて島暮らしの移住相談や空き家相談も増加していたが、私ひとりではどうすることもできなかった。スタッフ以外でも半ばたらい回しにされてしまっている若者たちの状況を見ていて、なんとかできないものかと思った。
それに借りることのできる好条件の物件は、うちのような信頼の浅い会社へはやってこないし、ましてや社長は、私である。そうそうまともな思考回路じゃない(笑)どんな状態の物件でも僕らは再生、あるいは活用の道筋を立てることができる。だから、好条件とは言わずとも、一つ一つのご縁を大切に、託されたものを甦らせることを選んでいる。
ご先祖も喜んでいるはず(たぶん・・・笑)
既存の解体補助金という制度で助かる人がいる一方で、その制度を活用してまだまだ住める家も更地になっていく現実がさらに追い討ちをかけている。だからこの先の答えがわからない今も、不安のままこうして解体して更地にするのではなく、草を払い、守り続けることを選んだ。未来のことは、未来の子どもたちがきっと評価してくれるだろう。
2021年9月25日、
鹿児島県の蔓延防止措置期間は延長となり、まだパンデミックは続いており、飲食店等に対する時短要請も続いている。地域行事もことごとく中止となって久しい。ちょうどこうしたことで時間ができたことをきっかけに、経済回復を待つばかりではなく目の前に突出している社会課題に対しても動かないと将来もっと大変なことになると思い始めた。
空き家の課題は、将来の空き地の問題で、コミュニティの希薄化や存続の危機につながっている。学校も職場もなくなり、空き地と廃屋ばかりが目立つ島で、誰が働きたいと思うだろうか。
アイランドカンパニーは、こうした出来事にも背中を押されて、
新たに、島守株式会社(Shimamori Inc.)を設立することを決めた。
※2021年11月1日創業
※島守株式会社の保守・管理・運用・関連している空き家の一部
島内には、数え切れないほどの空き家があります。その理由はさまざまですが、その大部分が、時間が経てば解体されていくか、放置されるかのいずれかを辿っています。私たちは、そこにまずは「守る」という選択肢をもう一つ育てていくことで、ひとつでも多くの家や遊休施設を守理、そして、生かせるものから将来活用したい人たちのために、地域の財産としてつないでいく。
※鹿児島県北薩地域振興局と東シナ海の小さな島ブランド株式会社(島守株式会社)による協働事業でパンフレット制作や、甑島へのトライアルステイ(お試し移住)を実施した。今後は、島守株式会社が移住・定住の窓口となって民間からも取り組んでいく。
地域を守りたいと、
地域を守るのあいだには、
大きな壁があります。
さらには、移住したいと移住できる。のあいだにも同様の壁がある。だからこそ、私たちは、その壁を一緒に乗り越えていける関わりしろ(相談窓口)となり、地域の担い手として実働する橋渡しの役目としての会社をつくろうと思いました。
民間だけ、行政だけで解決しようとする時代は、
もう限界がきてる。
これまでの私たちは、食品加工事業、飲食事業、観光事業など民間視点で多くの事業を取り組んできましたが、いずれもこの暮らしに関わる問題を先送りしていたら、どのみち地域の将来はありません。守った先にこそ、ここを生かすことができると思うのです。
====================
トライアル移住「甑島に暮らす」
5泊6日ダイジェスト動画
◎ https://youtu.be/7WB9ewHp1Vg
移住の先輩に聞く「甑島に暮らす」
インタビュー動画
◎ https://youtu.be/_NSHnktVF4c
====================
2021年10月8日、
緊急事態宣言の4日前、突貫工事のように作り上げた期間限定の通販サイトは、静かにその役目を終えました。同時に、山下商店甑島本店の通販サイトは、本格的なサイトリニューアルをオープンしました。事業の片手間でやるのではなく、新しい事業部としての立ち上げです。
とはいえ、まだまだ理想の通販事業への道のりは遠い。
けれども、そのうち集落内の空き家を一軒まるごと通販事業部の拠点+配送センターにしようと構想しています。道半ばですが、スタッフの頑張りが身を結ぶように、年々着実に力をつけてきていることもわかります。また、通販を事業部化しているのは、多様な働き方を社内に作っていく意味もあります。これは、将来ますます重要になってきます。
私たちアイランドカンパニーは、会社の働き方・ルールに合わせてスタッフが働くのではなく、社員が10人いたら、10通りの働き方を。100人いれば、100通りの働き方を会社が支えていく時代が来るのではないかと思っています。
たとえば、スタッフが、結婚、出産、育児、看護、介護など。出社できないような状況になっても会社を辞めずに自宅からでも、サテライトオフィスからでもインターネット環境さえあれば世界中どこにいても仕事ができる。場にとらわれない職種も増やしていきたいという、試みの一つでもあります。
これまでもそうであったように、大事なことは、改善しながら続けていくこと。たとえ、他人に中途半端だとか、素人だと笑われたとしても、一発逆転を狙わず、コツコツと螺旋階段を上がるように、製造加工の技術向上を繰り返しながら、ものを届けるだけでない「しあわせな通販」としての高みを目指していきます。
2021年10月12日、
私は、甑島を離れて今度は、種子島の人里離れた一軒の古民家の前にいました。
鹿児島の離島である「種子島」の南西部に、新たな拠点を立ち上げる準備のためです。種子島という土地は、古くから多くの開拓者を受け入れ、安納芋や鉄砲伝来、これからの産業のひとつでもある宇宙産業など、多くのイノベーションを起こしてきたエネルギーを持つ土地です。また、明治期には、甑島各地からの移住者も多く、たいへん縁の深い島のひとつです。
その島で、新たにプロジェクトをはじめるにふさわしい屋久津集落は、コンビニはもちろん、ホテルも飲食店もなく、一軒の商店と簡易郵便局、そして美しい砂浜がある人口90名ほどの小さな集落。そういえば、ZOZOの前澤さんが宇宙に行くことを宣言したあの頃、私も宇宙にいくと会議で伝えたところ、スタッフは、みな苦笑いでした。
それは、社長がキャッチーな話題に乗り、面白くもなく、すべったという冷ややかな苦笑いです。それから、しばらくして、どうやら私が辿り着いたのは、宇宙ではなく、宇宙へいくためのJAXAのロケット発射基地のある種子島でした。私は、思わぬカタチで、いま宇宙に近づいています(笑)どうですか!あの時苦笑いしていたスタッフたちよ。
きっと、これを読んでますます苦笑いしていることでしょう・・・
その名は、ほしのやどり
※ほしのやどりは、2023年4月開業予定となりました。
ほしのやどりは、さとうきび畑に降り立つ星。世界中を煌めく星たちが、安寧の地を求めて、未来の種をもちよって流れ着くホテル。長浜海岸と呼ばれるサーフスポットまで車で5分、うみがめ留学に取り組む岩岡小学校まで徒歩5分。天気がいい時は、目の前に屋久島が見えます。現地の職人さんたちのご協力をいただき、現地のパートナーのおかげで、今月、開業することができそうです。
その翌月、今度は奄美大島にいました。かねてからプロジェクトの支援をしてきた宇検村にあるとよひかり珈琲店がオープンさせる泊まれるコーヒーホテル 「14hikari coffee inn」がついに完成したからです。2019年からかれこれ3年、メンターとしてコンセプト策定から全体の監修に関わらせてもらって、コロナ禍ではあるもののようやく開業を見届けることができました。
設計 studioKANRO 内野 康平
ロゴ・サインデザイン Izumi Izumi
大工 穂満 亮祐
プロジェクトデザイン ヤマシタ ケンタ
2022年1月21日、
奄美大島では新型コロナの感染拡大が広がっており、1月8日には県独自の奄美大島5市町村への緊急事態宣言が発出された。ちょうどその少し前、宇検村に通うようになって3年が過ぎた頃、甑島にいる私に宇検村役場から電話がかかってきました。
「前に言ってた空き家のことなんだけど、ケンタ借りんね?」
以前フィールドワークがてらに集落を歩いていた時に見つけた一軒の古民家。その家の管理のことが気がかりで、50年後には村の宝物になっているから、役場としても大事にしてもらえないか?って心からお願いしていたことがあった。そのことを覚えていてくれた役場の職員からの電話だった。
いろいろなご縁の中で、巡り巡って、電話がやってきた。本当に、人生ってやつはわからないものだ。
うかれゆわん
2023年3月27日現在、まだ開業には至っていないけれど「うかれゆわん」という名称で、プロジェクトチームを組んでいる。近い将来、この奄美大島の拠点も動き出すことになるでしょう。名前の由来は、奄美大島で昔から伝えられている精霊「けんむん」も暮らしていると言われる宇検村。「お酒造りの名人であるけんむんのお酒を飲むと、とても陽気に浮かれ出す」と言い伝えられていることから、ここで黒糖焼酎を飲んで、宇検村(湯湾集落)でうかれてみよう。
2022年4月5日、
世界のパンデミックは落ち着きを取り戻し始めているけれど、日本では、まだワクチンがどうとか、三密がどうとか、マスクを着用してとか云々が続いていた。相変わらず地域行事も概ね中止が続いており、感染者数もまだ報道されている。いつになったら・・・
そんな中で迎えた、東シナ海の小さな島ブランド株式会社=アイランドカンパニーの創業10周年。思っていたような、節目ではなかったし、まさか世界的なパンデミックの中で、この日を迎えるとはあの頃、微塵も想像していなかった。
ただ、これまでは「甑島のおいしい風景をつくる」を理念に掲げ、様々な地域プロジェクトを展開してきたけれど、この10年で島の外にも頼れる仲間たちと出会えることができた中で、今後は、甑島をはじめとする、東シナ海という海域をフィールドに、懐かしい未来の風景をつくる「集落文化創造社」を目指して、さらなる挑戦と地域再生に取り組んで行こうと視座を高く持つことにした。
これまで数々取り上げてもらったWEBサイトもリニューアル( https://island-ecs.jp/ )し、多岐にわたるプロジェクトの進捗や、これまでの10年間を振り返るコラムなどを届けるように変化した。この日を境に私たち自身、「懐かしい未来の風景をつくる」集落デザインカンパニーと呼ぶように意識的に変化させていくことになった。
ヤマサハウス×島守×東シナ海の小さな島ブランド株式会社
2022年6月、
上記3社合同により鹿児島のハウスメーカー大手であるヤマサハウスの甑島研修を2度に分けて受け入れた。
3世代続く家づくりをテーマに県内各地で新築物件を建てている設計、施工、企画、営業色々なセクションの若者たちに150年(3世代)後の世界の変化を実際に体験してもらうことで、これからの未来にあるべき家づくり、集落づくりとは何かについて中甑集落の古民家を舞台に、古道具や粗大ゴミなどの残置物整理を協働作業にて実施しながら互いに理解を深めていきました。
KOKUYU×リパブリック×東シナ海の小さな島ブランド社
KOKUYOのヨコク研究所では、〈人々が自律し個性に沿った自己表現・他者貢献をする〉〈社会システムが個人の自由と社会最適を両立する〉〈個人同士が適切につながり協働のコミュニティが生まれる〉ような未来のシナリオを「自律協働社会」と呼び、2030年にめざす社会として「ヨコク」している。
そして、KOKUYOは、この自律協働社会のあり方をさらに具体化することに加え、中期的な到達点として見据えたこのシナリオを自ら問い直して更新し続けるというミッションも同時に掲げている。
そこで、アイランドカンパニーを新たな働き方、組織開発のモデルとしておよそ5日間に渡ってインタビューとフィールドワークを実施。未来シナリオの具体化と模索のためのリサーチの1つとして位置づけ、下記の通り発表された。
その成果報告は、下記URLからどうぞ。
221011_YOKOKU-Field-Research-鹿児島_後編ダウンロード
島々には、
日本の未来が詰まっている。
可能性も希望も、絶望も。
2022年7月25日、
単に観光客を増やすのではなく、3泊4日の「観光×空き家再生」という、これまでにありそうでなかったツアー企画を実行した。交流人口の拡大とか、移住定住促進とか、関係人口とか、空き家問題とか、それ風の言葉を並べて机の上で考えてみても何も変わらないから
良質な企画や「関わりしろ」を生み出していくように、事前に用意されたアクティビティを体験し、消費するだけではなく、共に創るという意識が甑島には必要だった。地域課題を正しく解決していく方法を探すのではなく、共に「可能性」にフォーカスしながら楽しんでいく。
少し余談だけれど、
元々コロナ以前から少子・高齢化も過疎も進んでいたし、地域にお金が循環せず、人・もの・金・情報の東京一極集中も進んでいた。高度経済成長期以降の右肩上がりの経験からも脱却できず、日本のあちこちに蔓延る旧来型の金太郎飴モデル。どの町も口をひらけば、地域活性化と称されるゆるキャラグランプリ、B級グルメコンテスト、スーパー化した道の駅。
地方創生関連の予算は、結果的に都市部の大手代理店や上場企業が「地方創生」の名の下にプロポーザルに出ては、地方に流れるはずの予算が東京にまた戻る、まるで東京創生状態。
そうした動きが、この数年間パンデミックによって一時滞ったことは、正直なところ良かったなとは思うけれども、そもそも代理店の前に、「地域側のバケツに穴が開いている状態にも関わらず、そこに一生懸命に水を貯めようとしているような地域づくり」が、長期的にうまくいくとは思えない。
私たちは「地域課題」の解決方法を探すばかりではなく、「可能性」を見つけてフォーカスするチカラを育てていく海域として、特に2022年以降は、甑島での探究やスタディーツアーを楽しんでいる。
2022年8月20日、
今度は、沖縄に向かっている。内閣府の関連事業で沖縄離島の人材育成をする伴走支援型の実行委員の委嘱を引き受けた。人材育成が、今後の鍵だからだ。さらには、メンター講師としても、さまざまな離島ビジネスに対しておよそ半年間のコーチングを実施し、沖縄離島の仲間たちと彼らを支える仲間たちに出会えた。
那覇市の現 古謝 玄太 副市長、琉球ミライの仲間達、離島引越し便を展開するアイランデクスの池田社長らと、熱いコザの夜も過ごすことができた(おじさんたちには少し照れ臭いおしゃれなフルーツカクテルで・・・笑)。鹿児島と沖縄の島々が、いつの日か海域で連携して面白いことができる未来を想像すると、ワクワクしてきた。。。
鹿児島離島文化経済圏
という未来を
2022年9月12日、
沖縄から戻り、鹿児島離島文化経済圏の発起人代表として
セイルミーティング(いわゆるキックオフ)を鹿児島県庁にて開催した。
南北600kmに広がる鹿児島の有人離島28島のメンバーたちを中心に、その島々と一緒に面白い未来を作りたいと共鳴する企業や団体、政治家などが組織や立場を超えて名を連ねている。今回は、東京諸島のメンバーも参考にしたいと、わざわざ東京の島からも鹿児島へきてくれた。
挑戦が生まれる海域を
小さな魚たちが、大きな群れを成して泳いでいるように、若き魚たちの思いを結集し、島々の未来を絵本:スイミーにように共創していく。島におけるさまざまな過去の出来事は、変えられないけれど、今を生きる私たちの在り方によって、その意味を変えていくことはできる。
島という固有の環境では、あれがない、これがないと、「できない理由」が語られることが多いけれど、できない理由を無くしていく方法は、「お金」ひとつとっても、今の時代はやり方はいくつもある。この右肩下がりの時代において「島」は、特に課題先進地だとは思うけれど、1+1=2というようなわかりやすい構図では、成り立っていないとも思う。
不足しているものや粗探しのように、どこかのまちと比較しながら優劣をつけていくような過去の物差しで、島の課題を見つけることより、この時代における島の価値や可能性を探求する問いとその目を持つことが求められている。
×と+は、同じ2本の直線。
見方を変えれば
課題も価値で、可能性だ。
日本のあちこちで失われてきた豊かな自然環境や集落、そして生活文化が島々には、残されてきた。それらを礎に、大小さまざまな挑戦が生まれる海域をつくっていく挑戦が始まっている。次なる時代に必要とされるインフラは、こうした物質的ではない「つながり」という目には見えないものも重要であると、このパンデミックが改めて教えてくれたと思っている。
U-35 RITOLAB NEXT
2022年9月13日、
セイルミーティングの翌日、概ね35歳以下を対象にしたこれからの離島人材の育成のための甑島各地をフィールドとした合宿を開催。徐々にコロナ禍の終焉が近づいてきている。この先、島というフィールドでいかに生きていくか。手法ではなく、あり方を問い続け、答えのない時代も幸せに生きていくためのスタディツアーであり研修だ。
今回、メンターとして来島してくれた、奄美大島の麓憲吾さんは、活動の分野は違えど、私の道標のような大きな背中。私の人生を変えてくれた最も重要な師のひとりだ。憲吾アニの取り組みだけでなく、師が見ているものを学びたいと思った。
Islands have a dream.
そんな憲吾アニが、「島には、夢がある。」と教えてくれたのは、今から20年以上も前のこと。私が高校生の頃だった。島を離れ上京して夢を叶えるだけではなく、自分の夢を叶えるために故郷に帰る。そんな未来の島を実現するために、奄美大島に戻り一軒のライブハウスを自ら大工仕事をして「ASIVI」というライブハウス+音楽スタジオを立ち上げていた。
現在は、あまみエフエムも併設し、奄美群島の音楽や方言、生活文化や歴史も伝えるメディアになり、ウチとソトのチューニングをしている。表現者でありながらも、そんなチューナーのような存在が、価値観が多様化するこの時代には必要だと教わった。奄美大島に行かれた際、カーラジオをFM 「77.7MHz」 に合わせてみて欲しい。軽快な島口とシマへの愛情が、たっぷり詰まっています。
FUJIYA HOSTEL 売上並びに客数グラフ
さて、ここまでの取り組みの中で、フジヤホステルの経営状況はどう変化してきたのかもあわせてお伝えしようと思う。2020年に緊急事態宣言がされて、売上、客数ともに急激に落ちんだものの、その後の構造的な変化や自社ブランドの強化、スタディツアーなどの研修事業の新規受入、オプションプランの造成など、いくつもの軌道修正を行ってきた結果が、グラフを見ると着実に数字になってきていることがわかる。
年間の受入客数は、まだ2019年のコロナ以前には及ばないですが、2018年をわずかに超えてゆっくりと戻り始めています。また、売上はすでに過去最高となり、同時に顧客単価も伸ばしていることがわかります。これは、宿や地域に対する満足度が高くなっていることの表れです。グラフには記載ありませんが、何より圧倒的なリピート率が高い宿になっています。
これもスタッフたちの頑張りです。
2022年になり、私は島々を行き来するようになりました。
現在は、甑島にいられるのは、1ヶ月のうち10日から12日ほどになりましたが、いつもどこかの島から島へと移動しています。(が、実際は甑島での役もふえて結構大変、、、笑)
昨年の夏は、屋久島と種子島で、3つの高校にお邪魔して、地元にUターンした先輩たちがどんな想いで島に帰ってきたのか。そして、今何を想い、そんな挑戦をしながらわくわくしているのか。生徒たちのちょっと先の未来にいる先輩たちと交流し、その想いやそれぞれん人生に触れてもらうようなキャリア教育や、未来の事業家育成プログラム「KUMAGE READERS SCHOOL」なども実施しました。
次の世代も、同時に育てていく。
そうして2022年は、甑島列島に限らず、
鹿児島から沖縄の島々にも目を向けて、自分自身もちょっと先の未来を見据えながら動き続けていこうと決めた。なんだか、もうすぐ新世界が始まる予感がするからだ。いや、正しくは、幾つもの境界線や自分自身の可能性に蓋をしていた自分自身を超えて、自分の人生にもっとわくわくしていこうと思い直しているからだ。
今、それぞれの島で頑張る仲間たちは、出身者に限らず、1人、2人と数で言えば決して多くはないかもしれないけれど、志を持った若者たちが着実に島で暮らし始めている。一人でみる夢よりも、信頼のおける仲間達とみる夢は、もっと面白い。それを教えてくれたのが、この鹿児島離島文化経済圏=リトラボの仲間たちだ。
私はどんな役割を果たして、人生を全うしていくのだろう。
都会と島ではなく。島から島へ。ローカルからローカル。グローバルでも、インターナショナルでもなく、インターローカルの「橋渡し役=現代のはしけ」としてアイランドカンパニーは、次世代を育てながら、新しい海域を牽引する大人たちの衆号でいたいと思っている。この時代、いろいろなものが分断されていたり、うまくつながっていないような世代間のズレがあったり、島と島が孤立していたり、その「間」を取り持つ存在や調整役がますます必要だ。
井の中の蛙、大海を渡る
来る自立分散型社会ー
新型コロナウィルスが、その言葉を身近にしてくれた。けれども、そもそも島というものは、元から分散している小さな世界の連続だ。あとは、いかに持続可能な形で、自立していくのかが、私たちの世代に託されている。
島という閉ざされた環境に生きる蛙。
島は、まさしく井戸のような世界だけれども、この時代においては、決して大局が見えない世間知らずの蛙じゃない。アイランドカンパニーは、それぞれの世界で大笑いする島々の仲間たちと、井の外にあるたくさんの頼れる社会と、信頼のおけるネットワークを創造して、これからも、世界一暮らしたくなる集落を創っていく。
もうすぐ、島という存在が
日本の希望になる。
2023年3月某日、とある連絡があった。
3年前の緊急事態宣言の直前に訪れていた、沖永良部島からだった。現在、沖永良部島に新たに建設中のサテライトオフィスの入居者公募にアイランドカンパニーが採択されたとの知らせだった。
2023年4月、
私たち東シナ海の小さな島ブランド株式会社は、新たに沖永良部島にオフィスを構え、新たな物語をここから始めていきます。
まだ見ぬ風景を探しに、
まだ見ぬ世界へと海を渡ります。
未来は、
今この瞬間ここにある。
右肩下がりのこの時代に、我々大人たちこそ夢や目標を語り、ワクワクして生きている世界を生きていく。子どもたちに、楽しそうな姿をどれだけ見せることができるだろうか。近い将来、日本の島には、課題ではなく「未来」が溢れているように、東シナ海の小さな島ブランド株式会社は、
原点を忘れずに、もう少し挑戦を続けます。
2023年4月5日、
創業11周年を迎えました。
初心忘れず、より一層スタッフと共に
島々と共に、12年目の春を走ります。
まだまだ頼りない私たちですが、
引き続き、よろしくお願いします。
東シナ海の小さな島ブランド株式会社
代表取締役 山下 賢太
書いた人