誰かの記憶に残ること

島に生きるひと

2011年09月13日

Back Camera

今から5年ほど前、当時ランドスケープデザイナーとして関西を拠点に活動されていた山崎亮さんと出会うこととなった。僕は京都の芸大で建築(しかも、その分野のなかの極めて地味な地域デザイン)を専攻している貧乏学生だった。

ある日、そんな僕のいる教室の”横の教室”に非常勤講師でやってきたのが山崎さんでした。今やテレビや雑誌、新聞など多岐に渡って取り上げられるほどのご活躍をされており、あの頃に有名になるというそれを知っていればお近づきになっておきたいと思った人は多いはずだ。

ちなみに僕は、その当時に山崎さんと話したのは1度だけ。
しかも、鹿児島の甑島と言う島からきました。と、いうような他愛もないような会話だったような気がする。

本当はもっともっと話したかったのですが、実は山崎さんが面白い取り組みをしていることへの嫉妬心からなかなか近づけなかった(笑)これは、のちに本人に語られることになって笑ったのですが(笑)当時の山崎さんは、ホヅプロという製材所でのプロジェクトに熱心でした。

僕は、学生時代の研究課題のほとんどに甑島を設定して4年間を費やしていました。教授からは、研究課題が提出されるたびに「ヤマシタは、また甑島か」「また甑島か・・・」と。とうとう卒業制作の最後のテーマも、また、甑島だった。

ただ、僕は甑島が大好きだからすべてのテーマを故郷にしてきたのではなく、ほかのどのまちをテーマにしてもリアリティが湧かずに、自分の中のやる気スイッチがはいらないという理由からでした。だから、どちらかといえば、大きな視野をもって世界をみれないというかわいそうな学生だったのかもしれません(笑)

また甑島・・・のおかげで、僕は沢山の人びとに自分の名前や存在、甑島のことを覚えてもらえることができた。今思えば、これは、本当に幸せなことで、ラッキーなんだと思う。結果的に山崎さんとの再会もキーワードはやっぱり甑島だった。

天文館マルヤガーデンズの4階で再会を果たした瞬間に、山崎さんが僕に向かって言った。

「おぉ、君かぁ〜!甑島のヤマシタくんときいて、どっかで聞いたことあるよなって思ったんだよ。」

正確には、山崎さんが自分自身に向かって確かめるように言ったのだけれど。

誰かの記憶に残るということはとても幸せなことだ。
毎日毎日たくさんの出会いをもらい、名刺を交換したり、メールを送ったりする。けれど、そのひとが何者かまでは覚えていないことも多くある(ごめんなさい、僕は名前と誕生日を覚えるのが苦手です。つい、先日も母の誕生日をど忘れしていました(笑)私の失礼を許してください、母よ(笑))

学生時代の自分の行為が、今日の自分を動かしてくれている。出会わせてくれている。

以前、岡野工業の社長が俺は常々5年先のことを考えているから、今は5年前の仕事で飯を食っていると言っていた。そんな風に自分と置き換えてかんがえると、今の自分が未来の自分を動かすことになるのかもしれないと納得。それは、学生時代の自分が、今の自分の生き方を定めてきたように。

列島全体、あるいは薩摩川内市の甑島としてのコミュニティをどうしていけばよいのかをずっと考えてきたから、山崎さんとの出会いは自分にとって偶然のようで必然なことだった。記憶に残る、そんな自分であり続けることの大切さを知った気がしました。

ヤマシタケンタ

ヤマシタケンタ

1985年鹿児島県上甑島生まれ。JRA日本中央競馬会競馬学校を中退したのち、キビナゴ漁船の乗組員を経て京都造形芸術大学環境デザイン学科地域デザインコース専攻。故郷をもっと好きになりたくて島に帰る。東シナ海の小さな島ブランド株式会社の代表取締役兼百姓を務める。

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